未来活動のブログ

終活を違う視点で眺めてみよう。

心に響く話し方

前回の続きです

実家に里帰りしたら、年老いた親の生活環境がたくさんの荷物で浸食されている。 里帰りするたびに増えていく。 いずれ、これらを片づけなければいけないのは自分たち。
は~・・・頭が痛い!


直接、親に片づけるように言いますか?


前記事にも書いていますが、子供の側からはお願いのつもりでも、親は「子供から命令されたくない」という親のプライドがあります。 いくら子供がいい大人になっていたとしても。 


誰のおかげで大きくなったんだ! ってね、お父さんお母さんの機嫌を損ねてしまうわけ。先日テレビを見ていたら、昨年の西日本水害の際、実家が心配で「避難しよう」と言いに来た息子に対して、お父さんが中々避難せず、すったもんだのやり取りをした結果、危うく逃げ損ねてしまうところだった、という後日談がありました。


インタビューを受けたお父さん、こうおっしゃっていました。
「子供からは命令されたくないって思った」と。


息子さんからすると、一刻を争う事態ですから、命令しているつもりなんて無かったはず。でも、お父さんはそう受け取らなかった。


ですから、こういうときに有効なのは「お願い」形式で、「〇〇してくれると『私』が嬉しい」というフレーズ。 藪から棒に「片付けしてくれると私が嬉しい」なんて言っては台無しですよ! 


昨年は大阪と北海道で大きな地震がありました。 2016年にはここ熊本でも大変な地震が起きました。 まるで家をシェイクされたかのような惨状で。 幸い荷物の少ない家ですが、それでも地震後の片付けは大変でした。 荷物が多かったらもっと大変だったでしょう。


なので、「もし~たら?」という仮定の話や、地震を体験した人から直接話を聞ける人ならば、「こんな風に大変だったんだって!」という体験談が効果的です。


そのうえで「もし、大きな地震が起きたら大変よ? お父さんとお母さんには無事でいて欲しいから。 荷物の山で避難できなくなったらって思ったら心配なの」と、何かあれば心配、万一を考えて生活してくれると安心、というメッセージを伝えれば、お父さん・お母さんの心に響く可能性がうんと高まります。


いずれにしても、日ごろから「いつも気にかけているからね」というメッセージを伝え続けることも同時にしておきたいものですね。 イラッとさせられることがあっても、二度と親と話が出来なくなったときに後悔しなくて済むように。

親に終活して欲しいけど・・・。

終活をせずに亡くなった父の記事繋がりで、子供世代が親にして欲しい終活のことを。


良く耳にするのは
「遺品整理大変だった!」
「『片づけるのは自分が死んでからにして』と言われて大変な思いをした!」
「お金のことを決めておいてくれなかったから兄弟間でもめた!」
等々・・・。


一方、親世代にも言い分はあります。
「全部必要なものなのに、捨ててしまうだなんてとんでもない!」
「使っているものなんだから! 自分たちがいなくなってから処分したらいいだろう!」
「兄弟仲良く決めてくれたらそれでいい。」


ありきたりな話ですが、相手の立場に立つということがとても大事。 


例えば遺品整理って本当に大変ですよね。 こじんまりと暮らしていたように見えてもモノは意外と多いですし、遺品整理は「これを使う人はもういない」という喪失感と悲しみを伴う作業ですから、引っ越しの片付けよりも遥かに疲れる気がします。


ですから、片づける側は出来るだけ本人の意思で片づけて欲しいと思っています。


そこで親と意見を衝突させない方法のひとつとして、「アイ・メッセージ」というものがあります。 「アイ」は英語のI 、つまり「私」のこと。 どういうことかというと、「〇〇してくれると、私が嬉しい」と、間接的なお願いです。


親はいくつになっても親でいたいもの。 子供世代がいい大人になってしまったとしても、です。 親世代の皆さん、子供から命令されたり、キツい口調で責められたら傷つきますよね?  子供世代の皆さん、どうか親の立場というものにちょっとだけ意識を向けてみてください。 


例えば、結婚して子供もできた娘さんが実家に里帰りしてみると。 実家の廊下の両脇には荷物が山積みで、階段も半分は荷物が占領している・・・。 
片づけようよ、と促しても、親は全く動いてくれない・・・。
いずれ、親がいなくなったら全部自分たちにのしかかってくる邪魔なモノたちの山。 


今は不用品片付けでもお金が掛かる時代です。 出来れば、少しずつでも片づけて欲しいけれど・・・。さて、こんなときどうしますか?

何で終活しないといけないの?

と思ったことはありませんか?


ちょっとだけ私のことをお話します。 私の親は15年ほど前に突然亡くなりました。 
当時は終活という言葉も世に出ていませんでしたから、父が亡くなって以降は本当に大変でした。


それから10年以上過ぎた今、もし、私の父が終活していたら? と考えたときに、これはもう「タラレバ」の話となりますが、終活してくれていたら随分楽だったろうな、と感じます。 


表には余り言えない問題も、父が亡くなったことで全て明るみに出て、処理しなくてはいけなくなりましたし、もちろん、お金の問題も出てきました。 素人ではどうしても判断のつかないことは弁護士事務所を訪ねて相談しましたが、面識のある先生の事務所を訪ねることが出来たから良かったようなものの・・・、初めて会う弁護士の先生には、きっとどこまで話して良いか戸惑ったに違いありません。


そういった意味においては、終活は残された家族のためにした方が良いこと、となりますが、これだけでは肝心なことが抜け落ちています。 家族のためにすることはとても良いことですし、素晴らしいと思います。 しかし、肝心なのはご本人の気持ちです。


終活は義務ではないと思います。 終活という言葉が世に出て今年で10年。 終活という言葉もすっかり定着し、市民権を得ました。 自分の周りで終活に取り組み始めた人がいる、という方も多いのではないでしょうか? でも、ブームに乗っかってやるものではないと、私は思います。 もちろん、私の体験を照らし合わせれば、やるに越したことはありませんが。


それよりも、自分がいなくなった後にも家族が安心して暮らしていけると、自分も安心だとか、不安や負担を与えないことで、自分も幸せだというように、「自分が終活をすることで、『私』はどう感じるか?」という点に焦点を合わせて欲しいのです。


裏を返せば、自分がこれからも安心して生きていくために、幸せでいるために、自分は何をしたらいいのか? というところに焦点を合わせることで、最後まで「自分らしく生きる」ための方法が見つかるのではないかと考えます。