未来活動のブログ

終活を違う視点で眺めてみよう。

困りごとを書き出したら・・・

昨日の記事の続きです。


「手の付けやすいもの」「難しいもの」に分類したら、まずは何はさておき!
手の付けやすいものからどんどん片づけていきましょう。 


そして、問題は「難しいもの」ですよね! どこからどう片づけて良いのか、考えただけでうんざりするものって、あります。 だから私も自分のリストが中々完成しないのですが💦


とはいえ、少しずつでも進めることは可能です。


これにはコツがあります。



こちらの記事で葬儀を例に挙げていますので、引き続き葬儀を例に挙げますと・・・。



・来て欲しい人
・飾って欲しい花
・遺影写真
・宗教、宗派
・費用
・掛けて欲しい音楽
・来てくれた人たちに伝えたいこと
・お墓に埋葬するか、散骨するか、火葬だけにするか
etc


「葬儀」とひとくくりにしても、実は決めることがいくつもあります。 この中でも、例えばお花や音楽は決めやすいですが、中には中々決められないことも出てくるでしょう。
ですから、決めづらいものはいったん脇に置いて、決めてしまいやすいものからどんどん決めてしまいます。


葬儀に限らず他の事でも、まずは、その作業を大きくひとつのものとして捉えずに、出来るだけ細かく分類します。 そして、その中でも「手の付けやすいもの」からとりあえず始めてしまう、決めることで、片を付ける第一歩となります。 無理して今日・明日に決める必要は全くありません。 


「手の付けやすいもの」も含めてひとつずつ確実に完成させていくことで、気持ちの上で自信がついてきますし、もしかしたら1カ月後・・・あるいは半年後、もしかしたら数年かかるかも知れないですけど、ちょっとずつでも前に進めることが大切なんじゃないかなと思います。


この作業は、逆に急ぎ過ぎないことが必要なんですよ。


過去に私はこんな失敗をしています。 「私がいなくなったとき、片付けする人の手間を出来るだけ掛けないで済むように!」と凄まじい勢いで部屋を片づけてしまったのは良いのですが・・・!


卒業アルバムも全て捨ててしまい、SNSで私を見つけてくれた同級生のことを思い出せないのです。 中学の同級生だったか、高校時代だったか、思い出せない人もいましたし、一緒に学んだ時期は覚えているのに名前を思い出せなかったり。 随分失礼な話ですよね。


本も随分処分しましたが、読み返したい本は結局買いなおしたので勿体ないことをしました。。。


急がず、慌てず、確実に。

自分ごととして気づいてもらいたい

前々回の記事に、続きは別でと書いていました。


自分事として気づいてもらいたいこと。


これは大きくわけて2種類に分類出来、2つのワークで整理します。


ひとつめは、
「明日、自分が死んだら(死ぬのが嫌なら突然の長期入院でも良いです)、どんなことで困るか」
という視点で思いつく限り書きだしてみる。


もうひとつは、
「時間や予算の制限がない」という仮定のもとで、


やりたいことを100個リストアップ。


はい、ひとつめは怖いですよね~・・・。 
かくいう私も心臓バクバクです。 まだ私のリストも完成していません。
でも、見えるかたちで書きだしてみると、ひとりで握りしめていることが結構あることにも気づきますし、家族の誰かに引き継げるものも見つかるでしょう。あるいは、家族はダメでも外部に委託することが出来るかも知れません。
「いざ」という時のリスク分散の作業にもなります。


終活、という視点だと、どうしてもある程度の形が決まってしまいます。 相続、遺言、保険、介護、医療、葬儀、といった、誰にでも当てはまることは終活として整理していくための情報は、今は沢山あります。


しかし本当にそれだけでしょうか? 
例えばネガティブな人間関係とか、
お金の問題とか、
誰にも話さず自分の胸に仕舞っていること・・・。


自分の環境が急変したら、大切な誰かを悲しませたり驚かせたりしてしまうようなこと・・・。


もしかしたら、一朝一夕に片付くものではないかも知れません。 だって、今まで胸に秘めてきたことですもの。 墓場まで持って行きたいことなのかも知れません。 でも、持って行けないものだったら?


そういうことは終活では取り扱わないでしょう。


でも、生きている限り、それがあなたの心のどこかに引っかかっているものだとしたら。 それが片付くなら、どんなにすっきりするだろうと思っているものだったら。


ひとり心を落ち着かせることのできる静かな場所で、とにかく自分の頭の中ではなく、目の前に出してみることをおすすめ致します。


書きだしたら、次は「手の付けやすいもの」「難しいもの」に分類します。


ということで、今日はここまで・・・。
まだまだ続くよ!

要は、見る角度の違い

最後まで自分らしく、と言っても色々ありますが、分かりやすい例として「葬儀」のケース。


まさに、人生の最後の行事ですから。


自分が生きているうちに自分の葬儀を執り行う「生前葬」もありますが、亡くなってからの葬儀の方が一般的でしょう。 という前提で・・・。


かれこれ15年近く経ちますが、私が父を見送ったときを思い出すと。
唯でさえ自分の親の突然の死という非常事態です。葬儀社の方との打ち合わせ、通夜に来てくれた人への挨拶、戒名のこととか、余りにも大変すぎて、記憶がすっぽり抜け落ちています。


恐らくそういう方も一定数いらっしゃるかな。


これが、「私らしい方法で見送ってね」という意向で、掛けて欲しい曲や連絡して欲しい人、葬儀の規模等々、生前に決められていたならば、きっと家族も大変な中にも安らかな気持ちで送り出せるのではないでしょうか。


そして、2人に1人は掛かると言われている「がん」をはじめ、生きている以上、様々な病気のリスクがありますが、延命についても同様です。


内閣府の調査によると、万一の際、自分自身の延命を希望する人は5%だったのに対し、家族に万一のことがあったとき、延命を希望する人は15%なのだそう。 いずれも少ない数字ではありますが、見方によっては、自分のときと家族のときでは、3倍の意識の差があるということです。


「逝かせてほしい」と願う本人と「生きてて欲しい」と願う家族の意識の差は、本人にとってどう感じられるものでしょうか? 最後まで自分の尊厳を保ちたい人であれば、肉体だけが生きている状態は耐え難いものとなるかも知れません。
このあたりの記述は、

死ぬ瞬間―死とその過程について (中公文庫)
死ぬ瞬間―死とその過程について (中公文庫)
中央公論新社

↑こちらの本に詳しく描かれています。


やはり、元気なうちから、最後まで自分らしくあるために、万一のときには延命して欲しいのかして欲しくないのか、家族お互いの意思確認も大切ではないでしょうか。


自分らしく、その人らしく。


掘り下げ始めたらキリがないなぁ~。


でも暫くは、頭の整理のために続けます!